安心価格のいい葬儀

安心価格のいい葬儀 葬儀の初めから終わりまでご紹介します

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葬送の変化 葬儀とはなにか

 誰にでも訪れる死

誰にでも分かっていながら、なかなか実感としてとられないことがらのひとつに、「人間は必ず死ぬ、そして自分もその例外ではない」という心理があります。

わたしたちの人生はいずれきたるべき「死の瞬間」に向かってての歩みでもあるわけですが、その時をどのように迎えようとするのかは、人生の大問題のひとつです。

「よりよく死ぬこととは、よりよく生きることである」といういい方がされますが、死について、ひいては葬儀についての問題を常日頃から考えておくということは、日常生活をどのように生きていくかということと深くかかわっているのではないでしょうか。

わたしたちが人生で出会うさまざまな「死」について触れながら、人生の生と死の接点で行われる葬儀について考えてみることにします。

ここでは特定の宗教的思考にはとらわれず、葬儀とはなにかについて広く考えていくことにします。

また「葬儀」といえば伝統的な宗教儀礼にのっとって行われいるものの代表のように考えられていますが、明治以降、あるいは大平洋戦争後にかぎってみても急速にその姿を変えつつあります。

そんな変化の様子についても限られたページのなかで紹介していきたいとおもいます。

 三人称の死、二人称の死、一人称の死

さて、わたしたちにとってお葬式とはどういうものでしょう。「葬儀」という言葉を聞くと、親しかった友人の葬儀への参列を思い出す人、身内の人の葬儀を家族でやり遂げたを思い出す人、あるいは自分の葬儀には「あの人たちに集まってもらってこんなふうにしてもらいたい」ということを考えている人など、さまざな状況があるのでしょう。

これは「死」が「わたし」とどのような関係にあるかによって、そこでの葬儀と「わたし」の関係も異なっていることから生じてくる違いです。

わたしたちは一生の間に異なった形での「死」を経験します。

例えばそれは、近所の人が亡くなったという噂であったり、かけがえのない親や配偶者の死であったりします。そして最後には死におもむいていく自分を意識することになります。

つまり大きく分類するならば、わたしたちは人生において3種類の死と向き合うことになります。

第一は、わたしたちとなんらかの関わりをもっているものの、生活を共にするような関係にはない人びとの死。

第二は、わたしたちの人生の一部となり、わたしたち自身と分かちがたく結びついた人の死。

そして第三に自分自身に死。

これらをそれぞれ「三人称の死」、「二人称の死」、「一人称の死」と呼んだ哲学者がいます。

 葬儀とのかかわり

わたしたちと葬儀とのかかわりは、以上の三つの死の分類と深い関係にあるということが、すぐにおわかりになるでしょう。

つまり、わたしたちは三人称の人びとの葬儀には会葬という形で哀悼の意を表明します。

しかし、わたしたちにとってかけがえのない二人称の人の葬儀においては主宰者の側にたって葬儀を行わなければなりません。

そして、わたし自身の葬儀については、生前に葬儀プランを立てたり、遺言を残しておくことはできますが、それを実際に執り行うことは家族などにまかせるほかはありません。

したがってわたしたちは、葬儀と3通りに関わることになります。

それは第一には「葬儀への参列」であり、第二は「葬儀の主宰」であり、第三には「葬られる当事者」としてです。

 葬儀のはじまり

人間はいつのころから葬儀という形で仲間を葬ってきたのでしょうか。

残念ながらいまのところその起源をはっきりと確定することはできませんが、考古学的に人為的な埋葬の跡らしきものを確認することができます。

今から10万年ほどまえに、中近東からヨーロッパを中心に広く分布していたネアンデルタール人は、われわれ現世人類とは区別して旧人類と呼ばれています。

彼らの遺跡には、既に人為的な埋葬の跡と判断できる証拠が多数発掘されています。

例ばイラクのある洞窟では、遺体の周りから多くの花粉の固まりが発見されました。

それらは薬用植物の花粉であることが確認されておりますので、埋葬者が意図的に有用な草花を死者に手向けたものと考えられております。

こうした事実から、ネアンデルタール人はすでにすでに”生命”を精神的に認識していたとする研究者もいます。

またわが国でも届葬(くっそう)やかめ棺などの埋葬形式が縄文時代や弥生時代に行われていました。

当時に人々の心のありようをはっきりと知るすべてはありませんが、死者にたいする恐れや敬いの気持ちがあったことは間違いないでしょう。

このように考えてくると、人類は”文化”の習得とともに、死を意識し、死者を葬る習慣を形成してきたということができます。

戦争や災害などよほどの緊急時以外には、人間はなんらかの形式にもとづいて死者を葬り続けてきましたし、また死者を葬る形式そのものが人間社会の文化の一部を形作ってきたのです。

 葬儀とはなにか

さて、葬儀とは一体何なのでしょうか。

学問的には”死体の処置にともなう儀礼の体系”と定義することができます。

別の言い方をすれば、埋葬とその前後に行われる一連の儀式ということになります。

このような意味での葬儀は、世界中に数えきれないほど多くの形式とともに存在してきました。

細部について触れることはできませんが、例えば葬法(=遺体を葬る方法)を例にとってみても、火葬、土葬、風葬、鳥葬、水葬など多彩な形態が存在します。

これらのなかにはわれわれの感覚からすれば大変奇妙に感じられる風習もあります。

また、残酷な仕打ちとしか思えないものもあります。

しかし、逆に日本の慣習になじまない人びとからみれば、火葬直後に行われる拾骨の儀式は異様なものとして目に映ることもあります。

死にかかわる儀式や儀礼には、その国や民族の文化的風土が色濃く反映されていますから、日本的な慣習を絶対視することがないように気をつけたいものです。

 葬儀の役割を考えるためには

わたしたち人類は、文化をもちはじめたころから死者を手厚く葬ってきました。

また、それぞれの文化園には、それぞれ特色のある葬法や儀式が存在しています。

わたしたちは、なぜこのような多彩な工夫を積み重ねながら葬儀という儀式をおこなっているのでしょうか。

一般に葬儀といえば、亡くなった人の魂をなぐさめ、また悲しみにうちひしがれている遺族の悲嘆を癒す儀式であると考えられています。

ここでは遺族の悲しみを和らげるというはたらきに注目して考えていくことにしましょう。

残された遺族たちの悲嘆を癒すとはどのようなことなのか、この問題を説明するために、人間とは何か、社会とは何か、という観点に立ち返りながら考えてみましょう。

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