浄土真宗 お清め
浄土真宗 お清め
「お清め」 一体何を清めるのでしょうか?
人がなくなると必ずと言ってよい程、「お清め(おきよめ)」という言葉を耳にします。
お通夜の席の食事を「お清め」とよんだり、火葬場に行けば「お清め酒」が用意されています。
そして遺骨を抱いて自宅に帰着すれば「お清め塩」が準備されています。
あたかも「お清め」をすることが丁寧であり、仏教儀礼にも適ったことであるかのように思われているようですが、しかし一体何を「清め」なけらばならないというのでありましょうか。
「清め」という言葉の中には「穢れ(けがれ)」を除くという意味があるのですが、それでは亡き人を「穢れたもの」とでもいうのでしょうか。
確かに死を畏(おそ)れ死を穢(けが)れとして忌み嫌う日本の文化は神話の時代にまでさかのぼることができるし、今日もなお「お清め」をいう形で残っています。
しかし、そういう風習を無自覚に踏襲していくことが、実は亡き人を限りなく貶(おとし)めていることになるのです。
人間生きている間は「都合のよい事のみを求め、悪い事を避けたい」という思いで暮らしています。
がしかし、思う通りになることは本の僅かしかありません。
中でも「死」ということは一番思う通りにならないことです。
いつまでも生きていたいという思いとは裏腹に、必ず死ぬという事実があります。
生まれたからには必ず死ななければならないという事実。その事実を認めながらも、そのことを意識したくないという心が死を穢れとして遠ざけ、死に出会ったことを恐れるあまり「清め塩」などの行為が生み出されてくるのでしょう。
しかし、生前に父よ母よ兄弟よと呼び親しんできた人を、死んだ途端に「穢れたもの」として「お清め」してゆくことは、何とも無残であり愚かしく悲しい行為ではないでしょうか。
親鸞聖人は、死という事実を自分の問題として認めたくないという心が自身の生き方そのものを曖昧にしてゆくものであるとし、自分の思いが叶うことをのみ願望しつづける生き方が鬼神(きしん)信仰や外道に迷う姿だとして、悲しみをもって深く厳しく見据えられたのです。
確かに仏教でも「浄を欣(ねが)い穢(え)を厭(いと)う」というように「穢」という言葉を使いますが、少なくとも仏道でいう「穢」は、都合の良いことを求め、悪いことを避けたいという「我欲」にとらわれて暮らしている私たちに「やがて死んで身をどう引き受けるのか」と問いかけ、私たちの我欲の生活がいかに傲慢であるかを骨にまでなって訴えているのではないでしょうか。この亡き人に応える唯一の道でありましょう。
仏道に照らすと「清め」の行為はエゴの象徴であり、一切不必要であることが知らされてまいります。
私たちは仏道に生きる者の証しとして、まず葬儀の清め塩や会葬御礼の塩はいらないということをはっきりさせてゆくことが大切であると考えます。