天台宗の歴史と教え・寺の歴史と教え
天台宗・歴史と・教え
歴 史

中国・朝鮮・日本にひろまった大乗仏教について、その教理的基礎は2〜3世紀頃のインド仏教学者であった竜樹によってなされました。その竜樹の思想を受け、中国南北朝時代の彗文・彗思を経て、随の智ぎが大成されることになります。彗思がはじめて智ぎと出会った時「あなたとは、御釈迦様が霊鷲山で『法華経』を説かれた時、共に同じ席で聞いていた」と、その’再会’を喜んだという逸話が残されています。智ぎは天台山に拠って修行を重ね、悟りを開いたことから天台大師と呼ばれ、天台宗の名もここから起こりました。
日本においては平安初期、最澄が、中国で学んで日本に持ち帰り、比叡山で広めました。当時既に既成教団の多くは形骸しつつあったこともあり、最澄は20歳で受戒し僧侶となった後は、比叡山に隠遁しています。この有徳の僧に感銘を抱いたのが桓武天皇です。
天皇が供養会に行幸したことをきっかけとして、最澄は天台宗の法門を学ぶ為、天皇に遣唐使としての派遣を願い出ることとなります。最澄が目指していたものは単なる単科仏教ではなく、高遠な総合仏教であったことから、唐では達磨?T禅?U法・大乗菩薩?T戒?U・真言?T密教?U・天台宗(法華円教)とが、合わせて学ぶ対象とされ、これが四宗融合として日本天台宗の特色となります。最澄は帰国して後、開宗の許しを受けることは出来たものの、最大の理解者であった桓武天皇は崩御し、また、同じ遣唐使として交流のあった空海はとは弟子の秦範を巡って絶縁してしまいます。そうした中で最澄は西国や東国への巡化の旅に出かけました。天台宗は開宗が許されたとはいえ、出家の為の受戒は他の寺院で受けなければならず、
独立した一宗としては完全なものではありませんでした。最澄はこの勅許を求めながらも、弘仁13(822)年に入寂します。後に円仁(慈覚大師)、円珍(智証大師)によって発展することとなるのでした。

教 え

その教えの基本は「教」「観」の二門にあります。まず「教」とは天台大師智ぎによって著された「法華玄義」「法華文句」が中心となっています。具体的にはブッダの説いた教えの相を究め、その教えを貫く真理がどうゆうものであるか明らかとするもので、五時
(ブッダの50年間の説法を五期に分け)八教(その教えを「化儀の四教」と「化教の四教」で構成されると考える)によって、ブッダ一代における説法の分類を通して、「法華教」が最も優れていることを示しました。また、「観」とはその教えで明らかにされた真理を体得する為の修行方法などを説く実戦面のことで、智ぎはこれを「魔訶止観」で説き、先の「法華玄義「法華文句」とも合わせて天台三大部として重んぜられます。
この天台大師智○によって創始された天台宗は最澄によって、日本にもたされたものですが、既に述べたように決して中国天台宗をそのまま移植したというものでは無く、四宗融合という独自の思想が反映されたものとなっています。
それは密教・○教、戒・禅という様な種別にとらわれることなく、四宗はみな一元のものであり、根本教理は一致するものとして、これらを法華教の精神により総合統一していったものでした。
 後にこの天台宗を母体として鎌倉以降、様々な宗派が生まれることとなるのも、こうした思想が背景となっています。
天台宗は現在でこそ、そうした宗派と相対的に並んでいる様にみえますが、本来はそうした宗派にたいして絶対的な教義と存在意義をもった存在であることは理解しておくべきでしょう。