歴 史
親鸞は幼名を松若丸と言い、藤原氏の一族の流れをくむ公家・日野有範の子供として、承安3(1173)年に生まれました。幼くして父母を失ったこともあり、9歳の時には比叡山に上がり、天台宗の慈円僧正の下で出家しました。29歳の頃、山を下り、京都の六角堂に百日参籠を行い、そこで聖徳太子からの啓示を受け、法然を訪れ、彼の弟子となりました。比叡山での親鸞の生活を物語るものは残されておらず、また何故に山を下りたのか定かではありません。
いずれにしろ、法然に出会うことで念仏に触れた親鸞は彼を生涯の師と定め、一路念仏の道に突き進んでゆくことになります。しかし、その僅か数年後に法然は念仏弘通を止める様命令を受け、土佐に流されてしまいます。親鸞もまた越後に流されてしまいます。越後に流された親鸞は還俗させられ、藤井善信と名を改めますが、自らは非僧非俗を標榜し、愚禿と名乗る一方、恵信尼と結婚し子供をもうけます。やがて法然は許され、京都に戻りますが、親鸞は更に越後に留められ、この地を出ることになったのは法然が入寂してしまった後のことでした。
親鸞は師がいなくなった京都には戻ることは無く、新天地である関東に向かい、
常陸を中心とした活動を広げてゆきます。この頃の親鸞は弟子を育成する共に、浄土真宗の本典とも言える「教行信証」を著しています(この書が著された元仁1(1224)年が浄土真宗立教開宗の年とされています)。60歳を迎える頃になると、その教えの充実を図るため、経典を揃え易いなどの環境の整った京都に再び赴きました。晩年は常陸に残した息子が権力者と結び、弟子・檀家に専横を働いたことから義断するなどの波乱はあったものの、精力的に数多くの著作を完成させ、90歳でその生涯を終えています。
教 え
初期の仏教は成仏するために様々な実践行が求められていました。しかしブッダの場合、その前世において功徳を積み重ねてきたからこそ、わずか一生涯の修行のみで仏になることは出来たものの、我々の様な普通の人間が容易になし得ることではありませ。その修行も様々な戒律を守り、経典を研鑽するというもので、日常生活を送る者にとっては成し難いものでした。
こうした「普通の人間は所詮、今世では成仏出来無いのか」という疑問から、実践行を通じて自力で仏に成ることに反省が生まれ、自分の力で成し得ることをした上で、その後は仏の加護、救済にゆだねれば良いのではないか、という他力思想が生まれて来ます。そのひとつの結論が法然の打ち出した念仏の考え方でした。
即ち、ひたすらに「無南阿弥陀仏」と唱えながら、阿弥陀仏の他力にすがるというものです。しかし、これとて念仏を唱えるという自力の行を認めるものでした。これに対して親鸞は、念仏することそれ自体が、既に阿弥陀仏の他力によるものであるという絶対他力の考えを打ち出したのです。法然の念仏は、あくまでも行であり、阿弥陀仏の救済を期待して行うことが求められている点で異なります。
一方で、親鸞の念仏は自分の意志によるものというより、自然に口からほとばしる念仏、であり、自力では仏に成れない者も見捨てることなく救って下さる阿弥陀仏の慈悲を前にして、思わず口をついて出る報恩感謝の念仏なのです。
親鸞の妻帯も、そうした在家者を中心とする考え方の現われのひとつと言えるでしょう。実は法然も自身は妻帯しなかったものの、出家者の妻帯を認めていました。しかし、親鸞が自らの欲望を素直にみとめ、妻帯に踏み切ったことは、自らの教えが在家者を中心としたものであることを身をもって示したものとも言えます。
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