浄土宗の歴史
浄土宗
歴 史

 浄土宗における法然の事跡を振り返ると時、確かに、その存在は大きなものですがそこに至るまでは他宗派にも増して、様々名僧が関わっていたことを忘れることは出来ません。
 まず、インドの経典を中国語に訳す上で大きな功績があった鳩摩羅什、また、同じ頃の曇鸞は「無量寿経」「観無量寿経」などを通して浄土教の基礎を築きました。この曇鸞に続き浄土信仰を深めたのが道綽です。道綽は一日に7万遍の念仏を唱えたと伝えられてます。そしてこの道綽の弟子である善導によって、浄土宗は大成することになります。
後に法然が「偏えに善導大師に依るべし」という言葉を残したことからも伺える様に、これが今日の日本に伝えられている浄土の教えの根本となっています。
 聖徳太子や聖武天皇、あるいは最澄らによってそうした浄土の思想は古くから日本にもたらされていました。また10世紀に活躍した空也や源信により浄土の教えは注目を集める様になります。しかし、貴族趣味的なものであり、庶民の苦しみを救うものとなるには法然の出現を待たなくてはなりませんでした。
 法然は長承2(1133)年に岡山県に生まれ、幼名は勢至丸と呼ばれました。父は地方役人でしたが勢至丸が9歳の時に闇討ちに遭い、絶命してしまいます。13歳の時に叔父である観覚の勧めで比叡山にのぼり、15歳で正式に出家し、名も法然房源空と改めました。ここで法然は「無量寿経」「観無量寿経」を学び、その正しさを確信すると共に、善導大師の夢告を受けたことによって、山を下り、念仏の教えを広めることになります。南都奈良仏教や比叡山など既成仏教勢力より攻撃を受けましたが、念仏は急速な広まりをみせることとなり、法然は「一枚起請文」を最後の教えとして80歳で入寂します。

教 え

 浄土宗の本尊は阿弥陀仏で、経典としては「無量寿経」「観無量寿経」「阿弥陀経」があり、通常これらを浄土三部経と呼び重んじられます。特に「無量寿経」によれば、阿弥陀仏は仏となるにあたって四十八の願の誓いをたてたとされています。特にその中でも十八番目の願にあたる「生きものが信じ、願って、私の浄土に生まれたいといい、わずかな念仏でも唱えた人を救えない(のならば、仏にはならない)」という、念仏を唱えた人を救済する阿弥陀の仏としての誓いが裏付けとなっています。
 では、次にその念仏の唱え方が問題となってきます。善導大師の教えによれば、浄土の教えに関する修行である正行を重ね、念仏を唱える際の実践心得として「恭敬(阿弥陀仏を慕い敬う)」「無余(他のことは考えない)」「無門(途切れることなく)」「長時(終生唱え続ける)」の四修が挙げられ、そのための心構えとして「至誠心(他事の手段としない)」「深心(念仏以外には無いと思う)」「回向発願心(念仏の功徳は分かち合う)」の三心が説かれています。
 しかし、法然は「一枚起請文」において「但し三心四修と申すのは南無阿弥陀仏にて往生するぞと思う人にこもっています」と述べている様に、そうした信仰上の心得以上に、何より念仏をひたすらに求め、唱えることの大切さを説いています。これを専修念仏と言い、言葉からは厳しい修行を求められている様に感じられますが、求められているのは唱える念仏の回数では無く阿弥陀仏の救いを求める切実な思いが求められているのです。